梅雨明けはいつ
7月に入った。沖縄に続いて、1日は奄美地方でも梅雨明けが発表された。一方、本州付近は梅雨の真っただ中で、来週以降は再び台風の影響を受ける可能性もある。7月も上旬は大雨に警戒が必要である。
九州から関東甲信にかけても6月の総雨量は太平洋側を中心に多くなった。日本気象協会の最新の予想では、梅雨明けは「7月中旬」となっている。あと1、2週間ほど大雨に警戒が必要な日々が続く。

24節気「小暑」
7月7日は七夕だが、今年も牽牛と織姫星を眺めることは難しい。24節気では「小暑」7月7日〜22日頃。夏の暑さが本格化する。
空を見上げれば、もくもくと立ちのぼる入道雲。暖かく湿った空気が上昇し、上空で冷やされた空気が水滴や氷の粒になったものが集まることであのもくもくとした大きな雲が発生しやすい。
蝉の声があちこちに響き、地上には強い日差しと熱風が降りてくる。しかしまだ梅雨明け前の地域では、蒸し暑さが体にこたえる季節がやってくる。
暦では暑気に入る頃とされ、「暑中見舞い」を出し始める目安にもなる。梅雨が明けると日差しが日に日に強くなり、近年はもうすっかり真夏の時期。草木の葉はいっそう濃くなり、川や海は光を反射してきらきらと輝くまぶしい季節がやってくる。
七夕の由来
願いが書かれた短冊が笹の葉に揺れ、色とりどりの飾りでにぎわう七夕祭が開催されるなど、7月7日の七夕は日本の夏を代表する風物詩だ。現在、「たなばた」の呼び名で親しまれている七夕だが、五節供と呼ばれる季節行事の1つ「七夕(しちせき)の節供」に由来している。
七夕(しちせき)とは、乞巧奠(きこうでん)という、機織りや裁縫、書道などの上達を願う中国の宮中行事と、中国で古くから伝わる、牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)が1年に1度七夕の夜にだけ会えるという「星まつり」の伝説に関連する日として中国において普及していた。
奈良時代には、この中国の星まつり伝説と乞巧奠が、日本に伝わったとされているが、その際、もともと日本でおこなわれていた水の神様を祀る神事と結びついたといわれている。
日本に七夕の節供が伝わった当初は、貴族の宮廷行事として乞巧奠にならった行事がおこなわれていた。庭に「星の座」と呼ばれる祭壇が設けられ、五色の糸や梶の葉、琴、琵琶などを飾り、織女にちなんで技芸の上達を星に祈っていた。
貴族の教養として、特にきれいな文字を書くことが重視されていたため、梶の葉に和歌をしたため、文字が上手に書けるように願ったともいう。室町時代には、里芋の葉にたまった朝露を硯に入れてすった墨で書くと、文字が上手になるという風習も生まれた。
現在のように笹や竹に短冊を飾るようになるのは、江戸時代になり、庶民の間に七夕が伝わってからのこと。
江戸時代に七夕が広がる
江戸時代になると、庶民の子たちも寺子屋で“読み書きそろばん”を教わるようになり、字がうまいということは、男の子にとっては出世につながり、女の子にとっては器量の良さにつながるため、とても重要視されていたという。そうしたなか、庶民の間でも子どもたちの学問や技芸の上達を願い、短冊に願い事を記すようになった。
飾りに使う笹竹は背の高い方がよいとされており、孟宗竹(もうそうちく)の先端に青笹の枝葉を縛り付けた。当時の庶民の家には庭がなかったため、短冊や色とりどりの吹き流しなどによって飾りつけられた笹竹が、こぞって家々の屋根の上に立てられたとのこと。
江戸の風俗を記した当時の資料からも、江戸市中の家々の屋根の上に高く揺れる七夕飾りをみることができる。
こうして江戸の街を華やかに彩った七夕飾りは、七夕の夜にはすべて取り去られて、願いをかなえるために川に流されたという。
江戸時代には民間で盛んに祝われていた七夕ではあるが、明治6年に五節供が祝日でなくなると、七夕の行事は一度廃れてしまう。
復活するのは第二次世界大戦後のことで、商業化が進み、各商店街が集客のため競うように派手な七夕飾りを飾っていくようになる。その後、商業の中心が商店街から郊外に移っていくにつれ、多くの商店街の七夕祭りが消えていったが、現在でも宮城県仙台市や神奈川県平塚市など大規模化した一部の七夕祭は残り、七夕飾りを楽しみに多くの観光客が訪れ、賑わっている。
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