飛鳥・藤原の宮都が世界遺産へ

 飛鳥宮跡に藤原宮跡、飛鳥寺跡に高松塚古墳。教科書にも載っているような古代の遺跡で構成される奈良県の「飛鳥・藤原の宮都」が7月、世界文化遺産に登録される見通しである。

「飛鳥・藤原の宮都」は奈良県明日香村を中心に、隣接する橿原市と桜井市にも点在する19の遺跡で構成されている。この地は飛鳥時代、6世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて政治や文化の中枢だった場所。

 構成資産は3種類。日本で最初の本格的な都とされる藤原京の中心、藤原宮跡などの「宮殿・官衙跡」。天智天皇が建てたとされる川原寺など「仏教寺院跡」。蘇我馬子の墓という説のある石舞台古墳などの「墳墓」。

 約120年の飛鳥時代にあって、日本の歴史上、宮殿・官衙の跡が明確に確認できる国内最古の事例が「飛鳥宮」である。(写真は飛鳥宮跡)

飛鳥宮跡1

 この地域の調査の歴史は戦前にさかのぼり、膨大な蓄積がある。石舞台古墳では1933年から発掘調査を実施。藤原宮跡では翌34年からの調査でその位置が明らかになり、今も調査が続けられている。

 その後も1956年から飛鳥寺跡の調査が行われるなど、飛鳥時代の実像の解明が進んだ。この地域が一躍注目されたのは1972年。高松塚古墳で「女子群像」などの壁画が見つかり、「飛鳥ブーム」を巻き起こした。

 1983年にはキトラ古墳の石室にファイバースコープが入り、新たな壁画を確認。ほかの遺跡でも大規模な庭園の跡や亀の形をした石造物などが次々と発見され、大きな注目を集めた。

 飛鳥時代(6〜8世紀)とは?

 飛鳥時代は、日本の歴史上、592年〜710年。難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。

 狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す。

 飛鳥・藤原が世界遺産として評価される点として、飛鳥・藤原に続く平城京と平安京もそれぞれ古都奈良の文化財・古都京都の文化財として世界遺産になっているが、どちらも宮都としては後世の開発により都市化し、京都で辛うじて碁盤の目状の区画・道路配置として面影を留めるだけで、実際の世界遺産としては個々の寺社などで構成されるが(奈良は平城宮跡がある)、飛鳥・藤原はその宮都の範囲が埋もれているとはいえ、高い建物がないため見通しが利くことで規模感を知ることが出来る。

 前代の古墳時代に属する百舌鳥・古市古墳群では前方後円墳が主流であったものが、飛鳥時代になると円墳や方墳へと遷移し、さらに同時代中に八角形(牽牛子塚古墳・天武持統天皇陵・中尾山古墳)が登場するなどの変化が確認できる。

 飛鳥は仏教公伝から仏教が最初に定着した歴史的な場所であり、飛鳥寺・橘寺・川原寺などに残る旧伽藍の痕跡を示す礎石配置は飛鳥様式で、本薬師寺の白鳳様式を経て、国分寺により全国に寺が建立された奈良時代の天平様式に対し、この地域でのみ見ることができる物証である。

 日本の夜明け古墳時代(3〜7世紀)

 飛鳥時代は、日本国が成立し国づくりの過程が見られる時代であるが、古墳時代はそれ以前の時代である。

 日本の古墳時代は、日本列島の歴史における弥生時代(前8世紀〜3世紀)に続く時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指す。倭国が統一していった時代とされる。

 この時代、大王(天皇)を首長とするヤマト王権が地域の豪族を束ねていった時代と考えられている。前方後円墳の出現を特徴とし、防衛のための環濠集落を特徴とする弥生時代とは一線を画す時代である。この時代の文化を古墳文化と呼ぶ。

 対外関係では、4世紀以降、朝鮮半島に進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される好太王の広開土王碑文などから知られる(高句麗と倭の戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)。5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄資源は、甲冑、武器、農具、工具などに用いられた。大陸からは文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国であるとし、倭へ使いを通わしているとの記述が存在する。

 5世紀後半には朝鮮半島南部にも前方後円墳形墳墓が見られるようになるが、倭人が造ったか、日本列島からの影響を受けて造られたものと考えられている。

 古墳時代(大和時代)の150年間を通じて北海道、東北北部、南西諸島を除いた日本列島全体に約5200基の前方後円墳が造られている。

 謎の4世紀

 古墳時代の後期、西暦266年から413年にかけて晋(中国)の歴史文献における倭国の記述がなく、詳細を把握できないため、この間は「謎の4世紀」とも呼ばれる。ただし、後世の編纂のため信用性に疑問点があるものの、朝鮮半島の史書には4世紀にあたる時期の倭国からの干渉が記述され、考古学的調査からも日本と朝鮮半島間の活発な交流が見受けられる。

 4世紀の日本の様子を伝える同時代の資料は百済の王子が天皇に送ったとされる剣(七支刀)に記される七支刀銘文と、倭が百済と新羅を破ったと記す高句麗の好太王碑文の2点だけであると言われる。



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