水深100mへの挑戦
深海とは、水深200mより深い、高圧、低温、暗黒の過酷な環境が広がる海域で、地球の海全体の約95%を占めている。この世界では、人は生身の体では到達できない世界である。そのためまだ知られていない生物がそこには存在する。
では、水深100mではどうだろうか。やはり生身の人間は容易に潜ることはできない。
水深100mでは地上の約11倍(約11気圧)の強烈な水圧がかかる。生身の人間が息を止めて潜ると肺がぺしゃんこに押しつぶされ、特殊なスキューバ機材を使っても「窒素酔い」や「減圧症」などの致命的な危険にさらされる。
フリーダイビングの世界記録を争うトップ選手は水深100m以上に到達するが、これには長年の極限的な訓練が必要。 水深50mの時点で肺は陸上の約1/6に圧縮され、水深100mではさらに小さくなる。生身の人間がこの水圧に耐えるには、胸郭の柔軟性と、体をリラックスさせて酸素消費を限界まで抑える技術が不可欠だ。(写真は水深100mで発見された新種)
浮上の際、急激な水圧の低下によって体内の酸素分圧が急降下し、水面近くで意識を失う「ブラックアウト」の危険性が非常に高くなる。
スキューバダイビング
スキューバダイビングなどの機材を使って潜った場合はどうだろうか。スキューバダイビングの最大深度は、潜水方法やダイバーの経験によって異なる。通常のレジャーダイビングでは最大40mとされているが、特殊な技術(テクニカルダイビング)を用いると100m以上潜ることが可能だ。ギネス記録では332.35mが最大深度として記録されている。
通常の空気(酸素と窒素の混合気体)を使用して水深100mまで潜ることは極めて危険であり、事実上の限界水深を超えている。
高圧下では呼吸に含まれる窒素が麻酔のような作用を引き起こし、水深30m付近から判断力の低下や幻覚をもたらす。100mでは正常な思考や行動ができなくなる可能性が高い。
空気中にある酸素も高圧下では有毒となり、水深約56mを超えると全身の痙攣や意識障害を引き起こすため、潜水医学において空気での潜水は推奨されていない。
さらに100mの深海から浮上する際は、体内に溶け込んだ窒素を少しずつ抜くために何時間もの時間をかけて減圧停止を行う必要がある。適切な浮上を行わないと、激痛や麻痺、最悪の場合は死に至る減圧症を引き起こす。
ダイバーが水深100mに安全に潜るためには、空気ではなくヘリウムを混ぜた特殊な混合ガス(トライミックスなど)を使用する「テクニカルダイビング」の専門知識と、多重のボンベを携行する計画的な減圧浮上が必要不可欠だ。
水深100mへのダイビング
米カリフォルニア科学アカデミーの科学者たちが、グアム沖の水深約100mまで落ち込む「ブルーホール」の底へとダイブする。その最深部で、8年前に設置した人工サンゴ礁に生息する新種を発見したいと期待している。
グアムのアガット湾にある、ハートの形をした入り口で知られる海中の「ブルーホール」。その上に広がる海面が太陽の光を浴びてきらめく中、二人のダイバーが、ターコイズブルーの危険な深淵へと降り立つ準備を進めていた。
小さなボートの上では、バックルが鳴る音、ストラップを締める音、チューブやタンクを行き交うガスの音が響く。ダイバーは、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)で、米カリフォルニア科学アカデミーの魚類学者で海洋生物学者のルイス・ロチャ氏と、同アカデミーのダイビング安全責任者モーリシャス・ベル氏だ。彼らは、ほとんどのスキューバダイバーの手が届かない、水深約100メートルの穴の底へ向かおうとしている。
中有光層と呼ばれる水深40~150メートルのこの領域は、太陽光がほとんど届かず、多くの謎に包まれている。暗闇の中でサンゴ礁が繁栄し、この世のものとは思えない生物たちが息づいている場所だ。
この深さになると、「まるで月面に着陸したような気分になります」と、この海域の魚類やサンゴ礁の研究にキャリアを捧げてきたロチャ氏は語る。「最初に出くわしたものが、科学的に知られていない種であることが珍しくありません」
「アクアノート(水中探検家)」たちの任務は明確だ。8年前にブルーホールの底に設置した3基の「自律型サンゴ礁モニタリング装置(ARMS)」の回収だ。この装置は人工サンゴ礁として機能し、従来のスキューバダイビングでは深すぎ、潜水艇や遠隔操作無人探査機(ROV)を使うには浅すぎるこの海域から、海洋生物を採取する役割を果たす。
リブリーザーを使うダイビング
この海域はほとんど調査もされておらず、サンプル採取も稀だ。ロチャ氏は、ARMSが中有光層の生命に関する貴重な知見をもたらしてくれると期待している。氏にとって潜降は初めてではないが、だからといってダイビングの危険が減るわけではない。
この深さに到達するために、ロチャ氏は「リブリーザー」を使う。通常のスキューバダイビングのシステムと異なり、ダイバーが吐き出した空気を再利用する装置だ。
おかげでダイバーはより深く、長く潜れるが、リスクも増大する。故障でガスの混合比率が狂えば、酸素不足、酸素過多、あるいは二酸化炭素過多となり、いずれもダイバーの身体機能を奪うことになる。
深いところで何か問題が起きても、ダイバーは急浮上はできない。血管内に窒素の気泡が生じ、激痛とともに命を脅かす「減圧症」になるためだ。
リブリーザーによるダイビングは、1回あたりの危険性が通常のスキューバダイビングの5倍から10倍高いとされる。推定では世界中で年間約20〜25人が命を落としている。
「こんなことをするなんて、ルイスはどうかしていると思います」と、今回の遠征に参加しているカリフォルニア科学アカデミーの博士研究員スザンネ・ベーア氏は語る。しかしロチャ氏にとって、海底に眠る魅力的な宝物には危険見合うだけの価値がある。
「子どもの頃から探検家になりたかったのです」とロチャ氏は言う。「探検家にとって、誰も行ったことのない場所へ行き、誰も見たことのない種を見つけることほど素晴らしいことはありません」
「ヘリウム75%!」いよいよ海へ
水深約40〜150メートルの中有光層へ挑むために必要な訓練を受けた科学者は、わずか数十人しかいない。さらに深部へ到達した者はごく一部だ。その旅には膨大な訓練が必要であり、極めて危険で、決して快適なものでもない。
最後のストラップを固定すると、ロチャ氏はリブリーザーのマウスピースから深く息を吸い込んだ。「ヘリウム75%!」と氏は叫んだ。まるで漫画のキャラクターのような甲高い声だ。
氏が向かう深度では、空気は有毒となる。そのためリブリーザーは特殊な混合ガスを供給する。大部分はヘリウムだ。この混合ガスは、血液中の窒素などが致死レベルに達するのを防いでくれるが、深い場所にいられる時間は長くはない。
目的地までの降下は10分もかからないが、海底での作業時間はわずか15分程度しかない。その後、水面へ向けて、ゆっくりと制御された浮上を開始する。4〜5時間かかるプロセスだ。
待ち受ける危険にもかかわらず、ロチャ氏は出発を待ちきれない様子だった。船上では、ベル氏が安全チェックリストの最後の項目を早口で確認した。
「心身ともにダイビングの準備はできていますか?」とベル氏が問う。
「はい!」とロチャ氏が答える。
最後の装備チェックと緊急時の手順の確認を終えると、彼らは海に飛び込んだ。
深海のサンゴ礁(ARMS)を調査
「ほとんどの場所はまだ調査されていません」
科学者たちはかつて、深く潜れば潜るほど、サンゴ礁は色あせ、活気がなくなると考えていた。しかし過去数十年の間に、深場のサンゴ礁は驚くほど生物多様性に富み、色鮮やかな生きものたちのすみかであることがわかってきた。
過去数十年の間に、科学者たちはこの謎めいた生態系への理解を大幅に深めたものの、「深場のサンゴ礁に関する知識はまだ初期段階にあります」と、米スミソニアン国立自然史博物館の魚類キュレーターのキャロル・ボールドウィン氏は指摘する。「ほとんどの場所はまだ調査されていません」
過去10年以上にわたり、科学者たちは世界中の深場のサンゴ礁にARMSを設置することで、この知識の空白を埋めようとしてきた。米国海洋大気局(NOAA)の研究者らによって広く利用されているARMSは、複雑な海底の地形のように、1辺30センチほどの大きさに積み上げられたプレートによる構造体だ。
サンゴ礁が海中の都市だとするなら、ARMSは家賃無料の集合住宅だ。サンゴ礁で空き物件を見つけるのは難しい。そのためARMSが現れると、サンゴ、カイメン、ぜん虫、イソギンチャクなどの生物がすぐに移りすむ。
やがて、魚からカニに至るまであらゆる生物がすみ着くようになる。ARMSがサンゴ礁に長く置かれるほど、地元の生きものたちが利用するようになるのだ。
2018年、ロチャ氏のチームはブルーホールに4基、グアムの他の深場のサンゴ礁と浅場に数基のARMSを設置した。実際に潜って海底で個々の標本を集めるよりも、この方法でサンゴ礁を研究する方が効率的だと氏は言う。
「5分間サンプリングをする代わりに、8年間サンプリングしていることになりますから」
ARMSを回収した後、ロチャ氏はそれらを密閉容器に入れた。ここから、ロチャ氏とベル氏の数時間に及ぶ浮上が始まる。二人は写真を撮ったり、ジャンケンをしたり、マウスピースを一瞬外してアップルソースをすすったりして時間を潰す。
二人がブルーホールの巨大な穴に姿を消してから数時間後、第2のダイバーチームが海に潜った。2つのチームは水深約30メートル付近で合流し、ロチャ氏とベル氏は第2チームにARMSを引き渡した。
第2チームは、ARMSを無事に受け取るとそれを船上に引き上げ、海水で満たされた容器に入れた。科学者たちが集まり、収穫物を一目見ようと身を乗り出した。
最初のARMSが容器から取り出されると、船上の科学者全員が歓声を上げた。それぞれのプレートはまるで抽象画家の作品のようで、表面はこぶ状のオレンジ色のカイメン、白くうねるゴカイ類などがすむ管(棲管)、ルビー色のホヤで飾られていた。縁にはARMSのプレートと同じくらい大きな枝状サンゴがぶら下がっている。クリップほどの大きさしかない鮮やかなピンクの魚が、濁った水の中を素早く泳ぎ回り、初めて直射日光を浴びていた。
海に沈んだ宝物 新種がいっぱい
研究者たちはARMSをグアム大学のグアム生物多様性研究センターへと急送した。そこでは別の科学者チームが装置を分解し、すべての生物を検査するために待機していた。彼らは各プレートを撮影し、大きな生物を取り除いた後、プレートに付着した殻や塊を削り取り、ゲノムを解読して生物の正体を突き止める。
ARMSで発見された海洋生物の中には、薄く切った柿にギョロ目をつけたような新種のメギス科の魚、黄色い水玉模様と木のような突起が散りばめられた新種のウミウシ、そして骨の一本一本が透けて見えるほど透明な皮膚を持つハゼの新種と思われるものがいた。
一方、見慣れた顔ぶれもいた。
「これは珍しく、興味深いヤドカリです」と、グアム大学の研究員ダニエル・アイゼンハウアー氏はシャーレを掲げながら言う。「通常の巻貝の殻ではなく、二枚貝の殻を背負っています。これが見つかってとても嬉しいです」
今回の遠征で、ロチャ氏らは2000の生物を採取した。そのうち少なくとも20種は新種だとロチャ氏は考えている。
「DNA鑑定を行えば、その数は10倍に増えるでしょう」と氏は予測する。
ほとんどの深海サンゴ礁は未調査
グアム生物多様性研究センターの無脊椎動物キュレーターであるロバート・ラズリー氏は、深場から現れた劇的な生物多様性を目の当たりにして衝撃を受けた。氏は同僚とともに毎週グアムの浅場のサンゴ礁を調査し、興味深い標本を探している。しかし、ARMSで見つかったものは、これまでに見たものとは全く異なっていた。
「これまでこんなに深く潜れる技術を学ぼうとはあまり思いませんでしたが、新たな記録や新種を見て考えが変わりました」とラズリー氏は言う。「あの深さに行けるよう、トレーニングを始めたいと本気で思っています」
未知の世界を探求したいと願う人々にとって、中有光層ほど最適な場所はないとロチャ氏は語る。
ロチャ氏がそのような深さに潜ることを「正気ではない」と言っていたベーア氏も、深場でリブリーザーを使うダイビングの資格の取得を間近に控えている。
「私たちは(二人とも)どうかしています」と、ベーア氏は言う。「ただ研究に夢中なんです」
ベーア氏は主に深場に生息するカニとサンゴを研究している。氏の夢はそれらを自然の生息地で研究することだ。「それ以上に素晴らしいことは想像できません」
潜水艇やROVの助けを借りずにこの深さに挑もうとする科学者の数は少ない。それが、ほとんどの中有光層サンゴ礁が未調査のままであり、結果として保護されていない理由の一つでもある。
命懸けで深海のサンゴ礁を紹介
「人々は深場のサンゴ礁を守ろうとしません」と、ロチャ氏は言う。「存在を知らないか、そこに何がすんでいるかを知らないからです」
人々にこうした場所を保護してもらう最善の方法は、サンゴ礁を紹介することだとロチャ氏は語る。氏は論文の発表、水中写真の撮影、そして標本を見てもらうための地域イベントの開催などを通じて、人々にサンゴ礁を紹介している。カリフォルニア科学アカデミーのスタインハート水族館では現在、氏のチームが中有光層で採取し、生きたまま持ち帰った数種類の魚が展示されている。
最後のARMSが回収され、標本の保存処理が終わった後、ロチャ氏らはグアム大学の教室に集まり、深場のサンゴ礁で見たものを披露した。
学生たちは、透き通ったエビ、体に比べて脚が巨大な黄色いカニ、前後が区別できない夕焼け色のウミウシの写真に目を丸くした。その色彩に学生だけでなく科学者たちも度肝を抜かれた。深くなればなるほど目に見える色は少なくなるはずだが、これらのサンゴ礁には虹のすべての色が含まれているのだ。「私たちはその理由を解明しようとしています」と、ロチャ氏は言う。
学生たちは色鮮やかな生物が入った瓶を回し、中身について議論したり、熱心に写真を撮ったりした。ほんの数日前まで、地球上の誰もこれらの動物の存在を知らなかったのだ。
「これらの新種が、この地域の保護に役立つかもしれません」と、ロチャ氏は語る。
最後の学生が教室を出ていくと、ロチャ氏は今回の遠征を振り返った。氏は深みに挑み、その秘密を暴き、生きて還ってきた。あるいは、本人の表現を借りれば、「いつもの仕事」を終えただけだ。
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