広島・長崎の平和祈念式典
今年も広島・長崎の平和祈念式典が行われた。広島・長崎に原爆が投下されて81年。
長崎市の平和公園で行われた平和祈念式典には、被爆者や遺族の代表、高市総理大臣に加え、アメリカやロシアなどの核保有国を含む98か国の代表などおよそ2600人が参列した。
式典では、この1年間に亡くなった被爆者などあわせて2773人の名前が書き加えられた20万4708人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められた。
そして、原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に黙とうをささげ、犠牲者を追悼した。長崎市の鈴木市長は平和祈念式典の「平和宣言」で、体と心に残った傷をさらけ出しながら平和活動に尽力し、2010年に亡くなった長崎の被爆者、吉田勝二さんの体験を紹介した上で、「人類と核兵器は決して共存できない」と述べ、核をめぐる現状への強い危機感を示した。

さらに、核保有国などの指導者に対し「核抑止は使わないことではなく、使うことを前提とする破滅的な理論であると指摘。核抑止力に頼れば頼るほど、核戦争の危機もまた高まる現実を直視すべきだ」と訴えた。さらに「日本政府には、核兵器禁止条約の再検討会議に参加し、唯一の戦争被爆国としての歴史的使命を全うするよう」求めた。
現在、イランやウクライナでは戦争が続いている。アメリカは自ら核兵器を有しながら、イランの核兵器保有を認めず、開戦に踏み切った。この後どうなっていくのだろうか。
不透明な中東情勢
中東情勢を見てみると、イラン外務省報道官は8月5日、ホルムズ海峡の管理を巡るオマーンとの協議で新たな航路の内容に合意し、「米国の妨害がなければ」との条件付きで、共同声明の作成に向けて最終段階にあると明かした。イラン外務次官は、新航路の大部分は自国の領海内になると主張しており、合意に対する米国の出方が焦点となる。
外務省報道官は記者団に、「オマーンとの合意は船舶の安全航行を意味しない」と主張し、障害の例として米軍によるイラン関係の船舶を対象とした海上封鎖を挙げた。
カゼム・ガリババディ外務次官は、国営通信に対し、新航路の大部分がイラン領海を通る「過去とは違う新しいモデル」と説明した。ホルムズ海峡を通過する船舶は出入りともにイラン領海を通過する設定という。だが、米側は海峡の支配権をイランに認めない姿勢を示していた。
ガリババディ氏は、米国はオマーンとの合意に関与していないが、米国側から覚書の履行に立ち戻るとのメッセージが届いたと説明した。合意の実施は、米国が海上封鎖やレバノン情勢、制裁の再開、資金凍結の解除停止などにどう対応するか次第と主張した。
なぜ、イラン戦争は終わらないか?
これに対して、トランプ米大統領は8月5日、ネバダ州のイベントで、今回のイランとオマーンの合意には直接触れず、「私は人を殺したくないから、(イランと)合意を結びたい」と述べ、協議の進展に改めて期待を示した。
この「ノラリクラリ」とした大統領の態度はなぜか。トランプ大統領は急ぐ必要はないのだ。もはやイランに反撃する能力もなく、長引けば長引くほど海上封鎖されたイランは貿易ができず、経済的にも苦しみ破綻するだけだ。
イランとオマーンの合意に通行料は取らないという規定は入っていない。つまり、米国や世界に対して何の意味もないことをやっているように見える。これでは米国や世界は納得しない。
結局のところイランはイスラム原理主義の国であり、宗教の最高指導者が敗戦を認めていないので、現段階で何も変わりようがない。国の復興のために通行料を必要としているのだ。
これは、太平洋戦争時の日本とよく似ている。日本も天皇を中心とした日本神道・原理主義の国だった。だが、原子爆弾を落とされて、ようやく天皇陛下が敗戦を認めた。天皇陛下は当時の日本神道という宗教の最高責任者であった。そのため、国民も敗戦を認めたのだ。
当時、マッカーサー元帥が終戦後、日本の地に飛行機で降り立った時、足が震えていたという。それは終戦に反対する国民がいて、狙撃されるのではないかと恐れたからだ。
しかし、日本は天皇陛下が認めた敗戦を全国民が受け入れていた。それほど宗教指導者は絶対であった。GHQは天皇の影響力に畏敬の念さえ覚えた。そのため敗戦後も象徴として天皇制が残された。しかし、残念ながら日本神道は世界宗教ではなかった。
正しい宗教と民主主義の両立を
では、勝った米国のキリスト教が正しいのか?そうではない、世界には仏教、イスラム教様々な宗教がある。その全てが正しい。ただし、古い宗教は原理主義に落ち入りやすい。人の自由を奪う原理主義や絶対主義はいけない。イノベーションする宗教と民主主義が大切だ。
また、民主主義だけでもいけない。 「自然に任せると民主主義は唯物化しやすい」とアレクシ・ド・トクヴィルアレクシ・ド・トクヴィル(1805~1859年)は言っている。
なぜ民主主義は人気取り政治(ポピュリズム)に陥りやすいのか。それに関して大川総裁はこう語っている。
「フランスの政治思想家トクヴィルは、『民主主義は、気をつけないと、この世的な幸福ばかり追い続ける傾向が出てくるので、ともすれば唯物論に傾いていく傾向がある。これはとても危険だ』と言っているのです。
『民主主義が唯物論のほうに走っていく』というのは、要するに、『みな、飲み食い、住居、その他、そういったことばかりに中心的な関心が出るので、これはとても危険だ』ということです」
民主主義では、バラマキを受ける人々が多数派となれば、それを押し止めることができない。人々が欲望ばかりを求めるようになると、道徳心や精神の高潔さが顧みられなくなり、民主主義は唯物論に傾くことが危惧されてきた。
この民主主義の堕落を防ぐ最大の処方箋は、「政治参加」と「宗教」であるとトクヴィルは語っているが、それは今も通用する考え方だ。
「自由・民主・信仰の平和」
自分の幸福と公共の幸福を共に追い求める 今の日本には、何をやっても変わらないという風に、政治不信や政治に関心を持たない風潮が根強くある。その副作用として、「自分の生活や趣味の世界で生きることができれば、それで満足」と考える人が増えている。
しかしトクヴィルによると、自分の小さな世界に閉じこもり、政治を他人事にする人はお上の判断に従い、個人の自由を進んで手放す傾向にある。そしてそうした人が社会に増えれば、専制政治が生まれ、自由が蝕まれやすいという。
それに対し、個人の幸福だけを求めるのではなく、地方自治やボランティア(宗教や慈善、教育など)に参加して公共の利益を実現することが重要であるとし、その延長線上に、社会問題への意識が強まり、民主主義が健全化に向かうと指摘する。
大川総裁も次のように述べる。
「政治参加のチャンスの平等が与えられているならば、政治参加の自由を駆使しなくてはいけません。自分の内なる幸福や家族の幸福という『私的領域における幸福』だけではなく、自らの権利を駆使して政治に参加し、『公的領域における幸福』を自分たちで創造することができるのです。 『努力によって公的幸福を創造することができる』ということは、人間としての誇りであり、栄光であり、この世に生きた証でもあります」
お上に頼らずに「自分たちの運命を自分たちで決める」ことが民主主義精神の根幹である。
宗教は民主主義社会を繁栄させる
さらに民主主義が唯物化しやすい点についてトクヴィルは、「宗教」が個人の欲望を抑制する重要な役割を担うとしている。
宗教は、制度や法律では望めない「人間の精神性」を自発的に高め、公共心をも育む。さらに信仰心があれば、政府や世論に追随することなく、信念や正義を貫くことも可能となる。 政府を超えた創造主の存在や隣人への愛、死後の世界を信じる心が、社会の幸福のために活動する原動力となるのだ。
だからこそトクヴィルは、移民大国・アメリカが民主主義の下に繁栄を享受している最大の理由を「宗教」に見出し、こう指摘した。
「信仰をもつことなしに社会は繁栄し得ず、というより、そうでなければ社会は存続しない」 「人間は信仰をもたないならば隷従を免れず、自由であるならば、宗教を信じる必要がある」 各人が神仏の心に目覚め、公的幸福を創造していくことが、民主主義のあるべき姿だ。
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