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トキ放鳥27年ぶりの空
9月25日佐渡市新穂正明寺(にいぼしょうみょうじ)で、トキの放鳥が行われた。約1500人の温かい目に見守られながら10羽のトキが佐渡の大空を舞った。1981年、国内で最後の野生のトキが舞ってから27年、2003年に国内最後の野生種「キン」(36歳)が死んでから5年。こんなにはやく野性のトキが戻ってくるとは思わなかった。

もちろんこれで完全にトキが再生される補償はどこにもない。本来、野生生物が住んでいた自然環境をどれだけ取り戻せるかがカギとなる。トキを自然に放鳥し、注意深く保護していくことは、本来あるべき生態系を復元することにつながる。トキが安心して暮らせる環境は、私たち人間にとっても安全で安心な環境である。

また、今回のトキの復活には「佐渡トキ保護センター」の人たちや「日本中国朱鷺(とき)保護協会」など、多くの人たちの努力があった。今年83才になる、保護協会の会長、村本さんはトキの募金活動などを通じて約50年間活動している。中国へ通うこと21回、日中交流にも尽力してきた。放鳥されたトキは中国から譲り受けたものを人工繁殖させたものだ。佐渡トキ保護センターでは、現在110羽まで殖やすことに成功している。

現在の日本の環境は、正しいものになっているのだろうか?どうして日本のトキは、絶滅したのだろうか?そして、ここまで回復するまでに、どんな苦労があったのだろうか?

日本産トキの絶滅
かつてトキは日本国内に広く分布したが、肉や羽根を取る目的で乱獲されたため、1925年か1926年ごろには絶滅したとされていた。その後、昭和に入って1930年から32年にかけて佐渡島で目撃例が報告され、1932年5月には加茂村(→両津市、現佐渡市)の和木集落で、翌昭和8年(1933年)には新穂村(現佐渡市)の新穂山で営巣が確認されたことから、1934年に天然記念物に指定された。

当時はまだ佐渡島全域に生息しており、生息数は100羽前後と推定されていた。終戦後は、1950年を最後に隠岐に生息していたトキの消息は途絶え、佐渡での生息数も24羽[11]と激減していたことから、1952年3月に特別天然記念物に指定され、1954年には佐渡で、1956年・57年には石川県で禁猟区が設定された。

しかし、禁猟区には指定されたものの生息地周辺での開発などは制限されなかった。また、民間の佐渡朱鷺愛護会や愛好家の手でも小規模な保護活動が行われるようになったが、1958年には11羽(佐渡に6羽、能登に5羽)にまで減少した。

1960年、東京で開かれた第12回国際鳥類保護会議において国際保護鳥に指定され、会議を記念してトキをあしらった記念切手も発行された。1971年には、能登半島で捕獲された『能里(ノリ)』が死亡し、佐渡島以外では絶滅した。

トキの減少の一因として農薬(による身体の汚染・餌の減少)が取り上げられることが多いが、日本で化学農薬の使用されるようになったのは1950年代以降であり、その頃にはすでに20羽ほどにまで個体数を減らしていた。

1965年、幼鳥2羽(『カズ』と『フク』)を保護したことから人工飼育が試みられるが翌年、カズが死亡。解剖の結果、体内から有機水銀が大量に検出されたため、安全な餌を供給できる保護センターの建設が進められる。

1967年トキ保護センター開設。フクと、1967年に保護された『ヒロ』『フミ』の計3羽がセンターに移された。翌1968年『トキ子』(のちに『キン』と命名される)を保護。1970年には能登の最後の1羽『能里(ノリ)』を保護し、トキ保護センターに移送する。キンがメス、能里がオスだったことや盛んに巣作りを行っていたことから、繁殖に期待が持たれたが、1971年に能里が死亡。人工飼育下のトキはキン1羽となった。(フク、ヒロおよびフミは1968年に死亡)

1968年頃NHKがトキの営巣地である黒滝山上空にヘリコプターを飛ばし空撮を行ったが、1969年にトキが黒滝山の営巣地を放棄し人里近い両津市へ移動したのは、そのためだという指摘がある。これ以降、雛の巣立ちが認められなかったため、卵を採取して人工孵化を試みるがすべて失敗した。

1981年1月11日から1月23日にかけて、佐渡島に残された最後の野生のトキ5羽すべてが捕獲され、佐渡トキ保護センターにおいて、人工飼育下に移された。(センターで付けられた足輪の色から『アカ』『シロ』『ミドリ』『キイロ』『アオ』と命名される)その後、繁殖の試みが続けられたが全て失敗し、2003年10月10日朝、最後の日本産トキ(キン)の死亡が確認され、日本産のトキは絶滅した。ただし、生物学的にはまったく同一種である中国産のトキを用いて人工繁殖を行っているため、日本におけるトキの扱いは「絶滅」ではなく「野生絶滅」のままである。(出典:Wikipedia)

佐渡島 トキ保護の歴史
1871年 大英博物館、トキの学名を「Nipponia Nippon」(ニッポニア・ニッポン)とする。
1908年 国が「狩猟に関する規則」に基づき保護鳥指定
1926年 「新潟県天産誌」で「濫獲の為ダイサギ等と共に其跡を絶てり」と記載、県内でトキ絶滅との認識
1930年 東京日日新聞(現毎日新聞)主催の座談会が旧両津町であり、住民がトキ生息を証言
1952年 国が特別天然記念物に指定
1960年 国際保護鳥に指定
1968年 旧真野町で雌「キン」を捕獲
1974年 国、トキ人工繁殖を推進する方針決定
1981年 生息が確認されていた雌「キ」「アカ」「アオ」「シロ」と雄「ミドリ」の計5羽を全鳥捕獲も、キ、アカ死ぬ。中国・陝西省で7羽のトキ発見
1983年 ミドリとペアリングしたシロ死ぬ。ミドリとキンのペアリング開始
1985年 日中両国がトキの保護増殖で基本合意。中国から雄「華華(ホアホア)」移送
1989年 キンと華華のペアリングに失敗し、華華を返還。中国で初の人工ふ化成功(平成元)
1990年 ミドリを中国に移送し、ペアリング開始
1992年 人工ふ化失敗でミドリを日本に返還。国産トキの絶滅確実になる
1993年 国が、国産トキの繁殖を目的とした「トキ保護増殖事業計画」を策定
1994年 日中、中国産トキ「貸与」で合意。雄「龍龍(ロンロン)」と雌「鳳鳳(フォンフォン)」が日本に移送。12月、龍龍が急死
1995年 ミドリと鳳鳳の人工ふ化失敗、直後ミドリ死ぬ。鳳鳳も中国に返還
1997年 中国内で、トキの個体数が100羽突破
1998年 中国側、人工繁殖した2羽の「贈呈」を表明
1999年 雄「友友(ヨウヨウ)」と雌「洋洋(ヤンヤン)」のペアが来日。日本初の人工ふ化に成功し、雄のヒナを「優優(ユウユウ)」と命名
2000年 優優とのペアリングのため、中国から雌「美美(メイメイ)」が移送
2002年 優優と美美の間に生まれた幼鳥2羽を初めて中国に返還
2003年 日本最後の野生種「キン」(36歳)死ぬ。国は93年の「保護増殖事業計画」を変更、日本生まれの中国種を繁殖・野生復帰させる方針に転換
2004年 優優と美美の間に生まれたヒナを初めて自然ふ化
2006年 日本で人工繁殖したトキが初めて100羽を突破
2007年 自然放鳥訓練のための「野生復帰ステーション」が完成。野生順化訓練を7月に開始。鳥インフルエンザ感染症対策として12月、東京・多摩動物公園に4羽を分散飼育
2008年 自然界により近いよう造られた野生復帰ステーション内の「順化ケージ」で5月、初の自然ふ化。9月25日の試験放鳥が7月に決定。9月19日、ケージのトキ15羽を放鳥準備のために捕獲し、健康診断などのため繁殖用のケージに移す。同25日、うち10羽を放鳥(出典:佐渡トキ保護センター・毎日新聞 2008年9月26日)

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はばたくトキ 共生の未来へ
「きれい」「うちにも飛んできて」――。佐渡市新穂正明寺(にいぼしょうみょうじ)の田んぼで25日行われたトキの放鳥。放たれた10羽のトキは、市民ら約1500人が見守る中を薄桃色の翼を広げて27年ぶりに佐渡の大空を舞い、「人との共生」に向けて新たなスタートを切った。

午前10時半すぎ、秋篠宮ご夫妻が二つの木箱のフタを開けると、2羽のトキは一瞬、戸惑った様子を見せた後、勢いよく飛び立った。続いて、トキ保護に尽力した市民や児童らの手で八つの木箱が相次いで開けられた。トキは次々と大空へ羽ばたき、1〜2分間、上空を旋回した後、田んぼを囲む山の中へ散り散りに消えていった。

放鳥を行った佐渡市立前浜小6年生の山本翔太君(11)は「うまく大空に飛び立ってくれてうれしい。間近で見るトキは本当に薄ピンクの朱鷺(とき)色で、きれいだった」と振り返った。新穂小5年生の本間拓人君(10)も「たくさん増えて、うちの家にも飛んできてほしい」と目を輝かせた。(2008年9月26日  読売新聞) 

参考HP 佐渡トキ保護センター → http://www4.ocn.ne.jp/~ibis/index.htm

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